カルトの本を3冊ご紹介 エホバ・統一教会・ヤマギシ会

カルトの本3冊

しばらく、カルトの本に夢中になっていた。カルト、新興宗教の中でもちょっと怪しいもののことだ。とりわけ、社会的問題を引き起こしたものというのは特殊な教義やシステムがあっておもしろい。エホバの証人、統一教会、そして――宗教ではないがカルト的なものという意味で――ヤマギシ会について書かれたおすすめの本をご紹介しよう。

なお、紹介する順番は私が読んだ順としている。

佐藤典雅『カルト脱出記』(河出文庫,2017)

カルト関係の本で最初に呼んだものだ。出版が2017年の1月と新しく、エホバの証人は比較的よく聞く宗教なので手に取って見た。非常におもしろい本だった。

作者の佐藤さんは、子供の頃に母親がエホバに入ったのをきっかけに、そのご25年間もエホバの証人として活動していた。大学進学もあきらめ、エホバの証人という組織の中でのし上がっていった。けれど、ついに30代も中盤にして脱会にいたった。

この本がおもしろいのは、作者がエホバの証人にのめり込んでいく前半では、読者の側もそれに引き込まれるというところだ。私的な欲望をなげうって、大学進学やまっとうな就職という世俗的な成功も捨て、伝道活動に勤しむ彼らに好感すら覚える。なんなら憧れまで感じてしまう。

だが、エホバの証人の組織の中でエリート街道を走っていた作者は、その後、組織の教義の変更やすべてを悪魔やハルマゲドンに結び付ける証人たちの思考に矛盾を感じ、こころがエホバから離れていく。すると、その描写もだんだんと色あせたものへと変わっていく。

救済のために伝道活動をしていた証人たちは活き活きして見えたのに、じょじょに、カルトに染められたおかしな人たちに見えてくる。作者の見え方、感じ方を、本を読みながら追体験できるのだ。

後半では、作者が自ら「覚醒」し、さらに妻や家族も次々と脱会させる。このあたりの描写はさながらスパイ映画のようできわめてスリリングである。エホバの証人の歴史、教義変更といったデータに基づいて矛盾をあぶり出し、そこを心身ともに抜け出していくさまは圧巻だ。

また、作者は四半世紀にわたってエホバの内部にいた人なので、エホバの証人特有の言葉や言い回しを勉強できる点もいい。「世の人」はエホバ以外の世俗の人、「○○姉妹」は女性信者の呼び方、「霊的」は誉め言葉など。

『カルト脱出記』というともっと壮絶なものかと思ったが、最終的に感じたのは、「エホバの証人はそんなに怖くない」ということだ。はたして「洗脳」というほどのことを行っているかというと、どうもそうは思えない。カルトというと、オウムのようにテロや犯罪に走るイメージがあるが、エホバの場合は暴力はもちろん、徴兵や格闘技の実践も禁じているわけなので、その危険は一般人より低そうである。

ともあれ、エホバの証人はよく訪問してくるし、しばしば耳にすると思うので、この本を読んで多少知っておくといいかもしれない。

なお、この本の内容を含め、エホバの証人についてはこちらの記事にも書いている。

エホバの証人はどんな宗教? 勧誘へのベストな対処法とは?

2017.07.05

米本和広『我らの不快な隣人』(情報センター出版局,2008)

サブタイトルは「統一教会から『救出』されたある女性信者の悲劇」である。これは元信者ではなく、ジャーナリストが取材して書いたルポルタージュである。

エホバの証人の次は何を読もうかと思ったとき、統一教会の名が浮かんだ。こちらもかなり有名な新興宗教である。韓国の文鮮明氏が1954年に創設した宗教だ。現在の正式名称は「世界平和統一家庭連合」である。世間のイメージでは芸能人の桜田淳子、元スポーツ選手の山崎浩子が参加した1992年の合同結婚式のことが強く印象に残っているだろう。

私はリアルタイムでは知らないが、映像で見たところ、巨大な東京ドームのような会場に無数の花嫁花婿がいて、文字通り合同での結婚式をあげていた。そのインパクトは絶大。92年に起こった出来事とは信じられない情景である。

と、これがよくある統一教会の話なのだが、この『我らの不快な隣人』で取り上げられているのは信者の救出劇のことだ。当時、その合同結婚式のことや霊感商法、多額の献金が社会問題となっていたこと、オウムが問題となっていたことから、統一教会に入信した子供を無理やりにでも「救出」するということが起こっていた。その悲劇を追ったのがこの本だ。

「救出」と括弧がついていることからも分かる通り、ただの救出劇ではない。むしろ、作者が問題としているのは統一教会そのものではなく、そこからの救出劇にまつわる悲劇である。信者の家族や、その支援者としてのカトリックの聖職者が、「保護」や「救出」という名目で、拉致監禁を行う。それによって生じる信者のPTSDと家族の崩壊。それこそが「悲劇」なのだ。

この本で描写される「救出劇」=「拉致監禁」は壮絶なものだ。家族やその仲間が、成人した娘を騙し、待ち伏せし、強引にワゴン車へと押し込んで、あらかじめ用意された監禁用のマンションへと連行していく。マンションは脱出できないような細工が施されており、さらには自傷行為を禁じるためにトイレ用洗剤がなかったり刃物がなかったりと入念な準備がなされている。

読み進むうちに非常につよく共感してしまうのは、親や兄弟に拉致監禁されるというその絶望感である。信仰の自由を奪われるだけでもきついのに、それを親しい家族にやられたとなると、そのショックたるや凄まじいものがある。その手法も暴力的だ。救出、保護、説得という正義のもとに行動する家族と「支援者」の神父は容赦なく信者の身柄を拘束し、身心の自由を奪う。PTSDとなるのも無理はない。

マンションのドア

この本を読了して思うのは、世間の常識というものの強さ、その暴力性だった。当初は統一教会のことが知りたくて読み始めたわけだが、結果的に痛感させられたのは、むしろ、一般社会に住む、普通のひとの異常性だった。

もちろん統一教会にはさまざまな問題があった。けれど、そこから娘・息子を奪還するためなら手段を択ばない、圧倒的な暴力にさえ訴えるという普通の人の感覚こそ、恐ろしいと思えた。この本で取り上げられた元信者の男女は、この「保護説得」=「拉致監禁」によってPTSDとなったり、若い数年ないし十数年(!)という貴重な時間を奪われたり、社会復帰できずに苦しんでいたりする。「子供をあやしい宗教から救うためなら、その人生を破壊しても構わない」という歪んだ考え方があぶりだされている。

なお、この問題は現在のひきこもり支援とも絡んでくる。強引な手法でひきこもっている者を引きずり出し、拉致監禁まがいの方法で施設へと連れていく業者があって、問題になっている。これを依頼しているのはほとんどの場合、実の両親だ。

タイトルの意味

この本のタイトルは『我らの不快な隣人』とあるが、どういうことか。「我ら」はもちろん、統一教会の外にいる人間、世間一般の人、あるいは、内容を絡むのだが、カトリックの信者のことだろう。「不快な隣人」というのは統一教会の信者のことだ。

「隣人」という言葉は、あきらかに新約聖書の言葉にかかっている。「汝の隣人を愛せよ」という、あの有名な言葉だ。

だが、信者家族とその支援を行うカトリックの神父たちは、不快な隣人を愛そうとはしない。ひたすらに、奪回をめざす。なんなら、カトリックへの改宗を促そうとしている。まったく、隣人愛など実践していないのだ。

この本のタイトル『我らの不快な隣人』は統一教会の信者を批判しているようで、その実、カトリックの神父と我々ふつうの人々の言行不一致を非難しているのだ。

米本和広『洗脳の楽園』(情報センター出版局,2007)

上の本があまりに面白かったので、同じ作者の本を探してみたら、これを見つけた。今度はヤマギシ会についてだ。ヤマギシについては村上春樹の『1Q84』でもモデルにされているので、かなり興味はあった。

正確に言えば、ヤマギシ会は宗教ではないらしい。理想社会を実現しようというひとつの運動だ。所有という概念をなくし、怒りや妬みのない、みなが楽しく明るく暮らすという牧歌的な社会。そういうものをめざしているらしい。

畑

作者の米本氏は、ヤマギシ会に興味を持ち、まずはその村人に話を聞く。すると、彼らは実に温和でいい人たちなのだ。社会における職を捨て、すべての財産を投げうって理想社会のために働いているので、まあ変わった人たちではあるが、悪い人間には見えない。ただし、一方でヤマギシ会の子供たちは学校で他の子どもを激しくいじめたりヤマギシの施設からの脱出を試みるなど、あきらかに異常をきたしている。

このギャップは何なのか? これが物語の推進力となって、話は進んでいく。

いま「物語」と書いたが、この本はただの報告書とかルポという域を超えて、サスペンス仕立てになっている。ミステリーと言ってもいい。「いったいこの不穏なものは何なんだ?」という不気味さ、疑問によってページをめくらずにはいられなくなるのだ。

その秘密は、ヤマギシ会の特講(ヤマギシズム特別講習研鑽会)というものにあった。この6泊7日の研修により、洗脳が行われるのだ。

しかし、本を読んでいくと、「洗脳」の言葉からイメージするほど異常なこと、暴力的なことは行われない。肝となるのは、質の悪い睡眠で脳が弱らされた人に、繰り返し、長時間、同じ質問を繰り返し、答えの出せない精神的窮地に追い詰めるというもの。どうやらそれにより、脳が異常な状態へ追いやられ、離人症を発症するのだとか。

だが、そのやり方も思ったほど過激なものではない。たとえば人間を暗い部屋に無理に閉じ込めて、ほぼ眠らせず、何時間も繰り返し同じ言葉を聞かせるとか、映像を見させるとか、それで洗脳されるのは分かる。が、特講で行われるのは集団での討論みたいなもので、その気になれば脱出することもできそうなのだ。それでも洗脳されてしまうという部分に、逆に恐怖を感じる。

特講は2017年の現在でも行われている。

常識とはどんなものか?

他にも数冊、カルト関連の本を読んだのだが、以上の3冊が圧倒的によかった。カルトについて知りたいなら、ぜひとも読んで欲しい、読むべき3冊である。

さて、この3冊を読んで強く感じたのは、常識とか思い込みの強さだった。2冊目に取り上げた『我らの不快な隣人』がもっとも顕著だが、世間の人というのは強い常識に縛られている。その常識にはずれた場合、ひとは信じがたい強さで、その非常識を否定しようとする。

また、他の2冊でもあきらかなように、ある集団には特有の常識がある。他の人からどんなに否定されてもなかなか揺るがないような常識があり、それがある集団を形成している。その常識を否定しようとすると、そこから村八分のようなかたちで排除されてしまう。

この常識、あるいは物語や虚構といってもいいと思うのだが、この謎を知りたくて、今は別の本を読んでいる。それがこちら。

ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』(河出書房新社,2016)

タイトルの通り、われわれホモ・サピエンスの歴史についての本だ。ただ、「歴史」といっても、その射程は広い。サピエンスがネアンデルタール人など、他の旧人類とともに地上を歩いていた時代から話ははじまる。そして、なぜサピエンスが他の人類より優れていたのか、というのが前半の大きなテーマだ。その謎を解くカギは、物語=虚構=常識の形成にある。

しかし、これについてはまた別の機会に書くことにしよう。