『サピエンス全史』の感想|虚構によって生きる、われらサピエンス

サピエンス全史の表紙

「いま、労働が尊いという神話が崩れようとしているんですよ」

こう語ったのは、『もしドラ』の著者であり、私が数年来心酔している作家の岩崎夏海氏である。「額に汗して働く」「働かざる者食うべからず」「働き者」などなど、こういった言葉に現れている労働は尊いという価値観、ある種の神話が、今まさに崩壊しようとしているというのだ。

岩崎氏がこの話をしたときに引き合いに出した本が、ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』だった。この中で、農耕革命が起こったときに労働が尊いものになったということ、それがある種の神話であることが書かれているらしい。というわけで、私もさっそくこの骨のある書物、上下二巻を購入して読んでみた。

その内容は、自明だと思っていた常識や、ほとんど普遍的なものだと思っていた価値観を相対化するような、さらには高尚かつ永遠だと思っていた自由・平等・人権といったものも神話の類にすぎないとしてしまう刺激的なものだった。

以下、この『サピエンス全史』の感想を綴っていこう。

『サピエンス全史』ってこんな本

上下巻、それぞれ300ページ弱ほどのなかなか骨のある本である。著者は1976年の比較的若いイスラエルの歴史学者。この本の内容はタイトルの通りで、われらホモ・サピエンスの全歴史についてだ。ネアンデルタール人など旧人類と並存していた頃から現在までの通史となっている。

とはいえ、いわゆる歴史の本とはだいぶ赴きが違う。『サピエンス全史』とあるように、現生人類サピエンスを軸として、そこに焦点を当てて書かれている。個別具体的な歴史的出来事に深入りするのではなく、人類全体を広く俯瞰しつつ描かれた本だ。

序盤では、サピエンスがいかに他の人類を圧倒したかが描かれる。ホモ・サピエンスはネアンデルタール人など、他の人類を圧倒し、駆逐し、絶滅させてしまった。さらには、マンモスを代表とする他の動物種をも駆逐し去った。それだけの力をサピエンスが得たのは虚構のおかげだったという。虚構は神話とか共通理解とか物語と言い換えてもいい。つまり、実在はしないのだけれど、多くの人が信じる何か、だ。これにより、サピエンスは見知らぬ者同士であったとしても一致団結して大きな物事に当たることができた。ここは『サピエンス全史』の中でもかなりコアとなる部分である。

次にサピエンスに起こったことは農業革命である。これについてもさまざまなことが書かれているが、読了後、印象に残っているのは「農業が小麦などの植物による罠だった」という指摘である。何のことか分からないだろうが、なんと、農業革命というのは小麦や稲が人類を奴隷化した巧妙な罠だったというのである。

このあと、話は貨幣・帝国・宗教などを経て、いよいよ科学革命へと移っていく。3つ目の大きな革命だ。これは資本主義と混然一体となって人類の歴史を形成していく。新大陸の発見、蒸気機関の発明、石油エネルギーへの開眼、さらには原爆の発明まで、科学と資本主義は一体となって人類を先へ先へと推進していく。

最後に考察されるのは幸福の問題だ。はたして、以上のような文明の進歩は人類を、サピエンスを幸福にしたのだろうか? 歴史学者によってはほとんど問われることのない、この幸福の問題についても最後に考察される。

以上がおおさっぱな流れである。

認知革命:人類は虚構によって生きている

プジョー

話を最初に戻そう。『サピエンス全史』の序盤で語られるのは認知革命だ。「認知革命」といってもピンと来ないかもしれないが、要するに、人類が神話などの虚構を共有するようになったことをこう呼んでいる。では、虚構とは何かというと、例として引き合いに出されるのが自動車メーカーのプジョーだ。

フランスの自動車メーカーであるプジョーには実態がない。本社ビルや営業所、生産される自動車、従業員などはいるだろうが、そういったモノやヒトがプジョーなのではない。プジョーというのは手で触れない、実態のない虚構なのだ。いまあるビルや工場、従業員や生産物がそのままであっても、プジョーという会社は消滅することがありうる。つまり、プジョーは人々が共有している虚構に過ぎない。

だが、その虚構があるためにプジョーの社員は帰属意識を持ち、他の部署の人間と仲間として認め合い、業務を遂行することができる。要は、株式会社というのも、人類の協力を可能とする虚構のひとつなのだ。

さらに、最初に述べた岩崎氏の指摘に戻るなら、労働は美徳だというのも虚構であり神話だ。この労働神話は株式会社神話よりもかなり古く、起源は次に述べるようにおよそ1万年ほど遡る。農業が行われだした頃、人類は労働を美徳であると考えるようになった。それまでは気の向くままに動物を狩り、木の実た果物を取って食べているだけだったのに。

虚構の力というのは7万年ほど前から人類を変えたのだけれども、これは現代でも有効だ。われわれ人類が虚構によって結束し、生きているというこのシステムは現在まで続いている。虚構=神話=物語はどんどん変化し、代謝していくけれども、決してなくなることはない。

農業革命:人類は小麦の奴隷となった!?

見渡す限りの小麦畑

長いながい狩猟採集の時代の果て、人類が発明したのが農業だった。特定の植物を栽培し、それを食料とするようになった。

常識的には、農耕の発明というのはポジティブなものとして語られる。これにより、不安定な食糧供給ではなく、安定して食べ物が得られるようになり、定住が可能になったのだから。だが、『サピエンス全史』で描き出される農業というのは実に残酷でネガティブなものだ。

その代表例となる表現が「人類は小麦の罠にかかり、奴隷にされた」というもの。人間が小麦や稲を奴隷にしたのではなく、その逆だというのだ。

たしかに、結果を見ると人類は彼らのよき下僕となっている。それまで自然界ではわずかしか生息していなかった小麦という種を大規模に栽培するようになり、彼らは他の植物に比べて圧倒的な数に増えている。たしかに、人間の管理下に置かれ、自然界に点在していたときとはだいぶ生育環境は変わったが、数は増えた。彼らは今でも繁栄を謳歌している。

一方、人間は? 人間も数は増えたわけだが、しかし、著者の指摘によれば、農耕によって人類一人ひとりは不幸になったという。肉や木の実、さまざまな植物を食べていたときに比べると、農業革命以後の人類は特定の食物に依存するようになってしまった。実際、私たちはいまでもパンや米、麺類やシリアルなど、炭水化物にエネルギー源を依存している。

さらに、絶え間ない労働が義務になった。狩猟採集の時代にはいつでも食べ物を取りに行けたし、備蓄があれば何もせずにいられたわけだが、農耕となるとそうはいかない。畑を耕し、雑草を取り除き、収穫をするというサイクルからは逃れられない。しかも、ここがポイントなのだが、食料が増えればそれだけ人口も増える。人口増加を種の繁栄だと捉えれば農耕革命は人類にとってプラスだが、一人ひとりの労役の重さや栄養状態から捉えると、実はマイナスだったというのが著者による興味深い指摘だ。

農作業をがんばって小麦を増やせば、それだけ人口が増える。そしたら、またさらに多くの小麦を作らなければならない。こんな無限ループで引き返すことのできない罠に、人類ははまってしまったのだ。

先ほども述べたが、この時代に生まれた虚構が労働を美徳とするものである。畑仕事をがんばる。これをよきこと、美しいことと捉えないと、人々が協力して働き、共同体を維持することができなかったのだろう。

なぜ女性は歴史を通じて弱い立場にあったのか

農業革命の話がひと段落した上巻の後半から下巻の前半にかけては、いくつかのトピックが独立して語られている。貨幣や宗教といった話題もいいのだが、印象に残っているのは男女の歴史の話だ。

人類の歴史を眺めてみると、圧倒的に男性の方が優位にあり、女性はほとんど常に弱い立場にあった。はるか昔には女性(妻)は男性(夫)の所有物だったことさえある。さらに、つい百年ほど前まで、日本でも女性には参政権がなかった。

もちろん、太古には卑弥呼が統治していた邪馬台国もあったし、西洋でもヴィクトリア女王など女性が国のトップだったことはある。だが、それは例外であり、圧倒的に男性が主導権を握っていた。政治以外の分野でも、歴史に名が残っているのは男性ばかり。これは、いったいなぜなのか?

著者はさまざまな説を検討していく。たとえば、男性は筋力が強かったから優位にいられたのではないか? けれど、権力を握っていた王侯貴族は農民や工場労働者に比べれば腕力は劣っていたわけで、筋力に原因があるとは考えにくい。あるいは、男性の方が攻撃性が高いから、優位におられたのかも? たしかに攻撃的な人間がそうでない人間を屈服させるというシチュエーションはあるが、もっと大人数の集団で考えると、攻撃的な人々を冷静な人間が統率するということも考えられる。攻撃的だから有利という推論は成り立たないように見える。

『サピエンス全史』の著者は、結局のところ、この謎は分からないと結論づけている。私自身もページをめくりながら考えてみたが、これぞという理由は見つけられなかった。筋力や知力も含め、何かしらの能力差に原因を求めようと思っても、男女の平均の差というのは個人差よりはずっと小さい。腕力で男をねじ伏せられる女などいくらでもいる。結局、謎は謎のままだ。

科学革命:無知の知が力となったとき

世界地図

いよいよ第3の革命、科学革命だ。これは『サピエンス全史』の第4部にあたるのだが、その出だしとなる第14章の見出しは「無知の発見と近代科学の成立」である。前半がミソ。科学革命の重要な側面は、無知の発見だったのだ。

無知の知を解いたのは古代ギリシャのソクラテスだ。だが、実際にこの認識がパワーとなり、人類の歴史を変えたのはだいぶあとだった。長いあいだ、人類は自分たちの無知を認めてこなかった。たとえば、本の中でも紹介されているが、科学革命以前の世界地図には空白がない。すべて埋まっているのだ。実際には空想や思い込みでしかなかったはずなのに、当時の世界地図は完璧だと思われていた。

だが、科学革命後の世界地図には空白がある。分からない、知らないということを、人間が認め出したのだ。そうした無知の自覚が生まれたからこそ、人類はあらたな土地を探しに出かけていくことができたし、新しい科学上の知見が得ることができた。

資本主義という最高の宗教

さらに、同時期に誕生した新しくて強力な虚構があった。それが資本主義だ。『サピエンス全史』では3つ目の革命を科学革命としているが、これは資本主義革命としてもよかったくらいだろう。資本主義は、たとえば新しい土地の発見を可能にした。史上初の株式会社はオランダの東インド会社らしいが、人々が資本をその会社に投資することにより、新たな土地の発見と資源の獲得が可能となったのだ。資本主義は人類の冒険を強力に後押ししてくれた。

また、資本主義は新しい倫理を人類に提供してくれた。つまり、強欲と消費が美徳だというのだ。次々に何かを買い求め、消費する。これは、旧来の社会ではむしろ悪徳だった。浪費は限りある資源を無駄にする悪いことだった。この倫理観はいまでも残ってはいるが、しかし社会を動かしているのは消費に他ならない。消費すればするほど経済は拡大し、人類は豊かになる。

しかも、資本主義は人間のあいだに新しい上下関係を作った。資本家と消費者だ。ここは印象的な箇所なので、そのまま引用しておこう。

 豊かな人々は細心の注意を払って資産や投資を管理しているのに対して、裕福ではない人々は本当は必要のない自動車やテレビを買って借金に陥る。
資本主義と浪費主義の価値体系は、表裏一体であり、二つの戒律が合わさったものだ。富める者の至高の戒律は、「投資せよ!」であり、それ以外の人々の至高の戒律は「買え!」だ。

引用元:『サピエンス全史』下巻,181頁

資本家と労働者=消費者は、見事な役割分担をしているというわけだ。

こうやって俯瞰的に現代社会の構造を見てみると、ますます資本家の有利さが実感されてくる。トマ・ピケティの『21世紀の資本』によって、労働より資本の方がより多くの富を生み出すということが盛んに言われたが、資本家であることはパワーなのだ。

労働と言う神話が崩壊したら……

さて、以上が『サピエンス全史』のほぼ全体像である。本当はこのあと、サピエンスのさらなる進化の可能性であるとか、本のサブタイトルである幸福の問題について論じられるわけだけれども、ここでは別のことを考えてみたい。冒頭で紹介した岩崎夏海氏の言葉、「労働という神話の崩壊について」だ。

ここ数年、日本ではいかに働かないかということばかりが議論されている。不倫や薬物といったトピックスもしばしば持ちあがるが、ニュースや新聞、あるいは世間話の種となるものでもっとも多いのは働き方の問題ではなかろうか。

しかも、ワークライフバランスの実現、ブラック企業の問題視、週休3日制の導入など、実は、いかに働かないか、いかに労働を減らすかという話題ばかりだ。日本人はもう、できるだけ働きたくないのだろう。労働の尊さ、神聖さが強調されることはほとんどなくなり、「24時間戦えますか?」などといったスローガンは口が裂けても言えなくなり、逆に、いかにして労働時間を減らすかという話ばかりしているように見える。

このままいけばおそらく絶対的な労働時間は減っていく。けれど、いちばん興味深いのは、労働神話が本格的に消え去ったあとのことだ。農業革命以来ずっと続いていた労働神話が崩れたら、いったい何が起こるのだろう?

そのとき、働くことはもう美徳でも何でもない。ひょっとしたら、労働していることは無能の証にすらなっているかもしれない。働いていると、さげすんだ目で見られるなんてことになりかねない。そんな時代になったら、働くことが生きがいであり、それが自分のアイデンティティであるという人は肩身の狭い思いをする。

だが、古い神話が滅びれば、新しい神話が必要になる。『サピエンス全史』の最初に言われたように、認知革命以後は、人間は虚構によって生きているのだから、何か新しい虚構が、神話が、なくてはならない。はたしてそれが何なのか?

ひとつ有力なのは創作活動である。物語を作ったり、絵を描いたり、音楽を奏でたり、こういった活動は労働ではない。さらに、労働なき世界では大半の人間が退屈という名の苦しみに直面するだろうが、創作物はこの退屈を埋めることもできる。これまで1万年のあいだ、農民や工場労働者が働いたおかげで多くの人が衣食住を満たしていたように、将来的には、クリエイターが創作をするおかげで、多くの人が退屈を撃退できるという構図が生まれるのかもしれない。

私が生きているあいだにどれくらい変化が進むのか分からないが、とにかく、サピエンスの歴史はまだまだ途上にある。もしかしたら、人類の歴史というのはまだ序章も序章に過ぎないのかもしれない。どんな新しい世界が待っているのか、なるべく長生きして、サピエンスの行く末を見ていたくなる。