是枝裕和『万引き家族』の感想|硬直した「正しさ」を破壊する傑作!

カンヌ国際映画祭でパルム・ドール(最高賞)を受賞した是枝裕和監督の『万引き家族』を観てきた。予告編のときから気になっていたが、期待に違わぬ面白さだった。

その感想を、ネタバレありで書いてみたい。

『万引き家族』の基本情報

『誰も知らない』や『そして父になる』などで知られる是枝裕和(これえだ ひろかず)監督の最新作。老母の年金と万引きを頼りに生きる6人家族の生活を描いた作品だ。

発想の源となったのは数年前にしばしば報道された、年金の不正受給のニュースである。親の死亡届を出さずに年金を受給し続けていた家族たちは日本中から非難されたが、はたしてそれはみながイメージするようなものだったのか? 実はこういう実態があったかもしれないじゃないか? そんな発想から生まれた物語である。

キャストは夫婦役にリリー・フランキーと安藤サクラ、老母役に樹木希林、3人の子供たちは松岡茉優、城桧吏、佐々木みゆ。

2018年6月8日公開。上映時間120分。

『万引き家族』を観た率直な感想

開始3分くらいで、もう面白かった。スーパーに入り、父親と子供が手慣れた手つきとチームワークで物を取っていく。そこでもう、心を掴まれた。

序盤は非常に貧しい5人家族のそれぞれの様子が描かれる。父親は日雇いの肉体労働、母親はクリーニングのパート、子供は平日なのに学校へは行かずぷらぷらしている。

「これは現代の日本だろうか?」と思うほどの映像だった。あたかも発展途上国の様子を映したかのような見た目となっている。

全体として何が面白いかと言えば、違法行為をしているのにそれがただの悪ではなく、人間として共感できてしまうという部分。たとえば序盤、虐待を受けている5歳の子を連れてきてしまう部分は、表面的には「誘拐」だが、「かわいそうだから助けた」わけで、あの夫婦に共感してしまう。

この共感によって、自分の中にある「正しさ」が揺さぶられる。というより、破壊される。ここにカタルシスのようなものを感じるのだ。

次に、要素別に掘り下げてみよう。

1)硬直した「正しさ」を相対化する試み

ここ数年、日本社会では「正しさ」が幅を利かせている。「正しさ」は硬直化して、これを盾にしてさまざまな人物や行動が攻撃を受けている。

たとえば不倫報道が最たる例だが、とにかく悪いとされることをやったとなると皆が容赦なくそれを叩く。こんなことがここ数年多かった。けれど、「それでいいのだろうか?」「具体的に何が起こったのか想像してみようよ」というメッセージ性がこの映画にはある。

誘拐をしてはいけない。これは正しい。しかし、5歳の子供が夜に部屋から追い出されていたら、保護してやるしかないだろう。

JKビジネスは犯罪の温床でよくないことだ。これも正しい。しかし、それによって生活を糧を得ている女もいれば、そこで束の間の心の繋がりを得て癒される男もいる。

『万引き家族』は、硬直した「正しさ」の裏にある物事の二面性をはっきりと見せてくれるのだ。

しかし、間違ってはいけないのは、主人公たち家族もまた、正しくはないということだ。硬直した「正しさ」に対し、別の新しい「正しさ」を持ち出しているのとは違う。

あの家族は——とりわけ父親は——ある部分で共感しうる一線を完全に超えてしまうが、それは「この男もまた『正しい』人間ではないんだぞ。勘違いするな」という作り手からの警告に思えた。

2)家族に血の繋がりは必要? 一つの神話の終わり

東日本大震災のあと、家族の絆がクローズアップされた。「絆」について、しばしば語られるようになった。

しかし同時に、幼児の虐待事件などの報道を目にするにつけ、おそらく、日本人の心の底では、こんな疑問が育っていったと思う。「家族というものに、血の繋がりは必要なのか?」と。

実の母親でも子供を殺すことはある。逆もある。なら、血の繋がりは家族の絆を結ぶのに、十分なものではない。一方、愛し合っている夫婦は、そもそも血が繋がってない。

それなら、家族を形成するのに、血の繋がりは必要でも十分でもないことになる。

こんな認識がすでに無意識レベルで広まっていたところへ、『万引き家族』は新しい家族観をはっきりと打ち出した。つまり、血の繋がりがない人間たちが、一般的な家族よりずっと強い絆で結ばれているという情景を映し出したのだ。

おそらく、家族になるのに血の繋がりが必要だというのは、一つの神話であり迷信でしかなかった——この映画はそういうメッセージを発している。

ちなみに、同時に上映されている山田洋次監督の『家族はつらいよ3』はまだ古い家族をベースにしているようで、非常に対照的である。

3)欺瞞に対する風刺

一つ目に書いた「正しさ」への批判とやや被るが、欺瞞的な人間に対する風刺も効いている。

それがもっとも明確なのは、家族が行政の介入を受けたあと、スーツを着た小ぎれいな若い男女が家族それぞれに話を聞くというシークエンスである。

あの男女はたぶん警察だったと思うのだが、非常に凝り固まったいかにもな公務員として描かれている。彼ら自身は悪い人間ではなく、むしろ熱心に仕事をしている「善人」なのだが、しかし、やはり欺瞞的なのだ。

彼らは誘拐された少女に絵を描かせる。すると、少女は家族で行った海水浴の絵を描く。非常に明るい色使いの、幸せそうな絵だ。しかし、それを見た男女は最初に、「そこにおばあさんはいたの?」と尋ねるのだ。

誘拐されたはずの少女が、幸せいっぱいの明るい絵を描いた。この奇妙な事実は完全にスルーし、自分たちの職務にしか目が行っていない。ここに存在している大きな欺瞞、しかも無意識レベルでの欺瞞に、大きな衝撃を受けた。

4)家族の繋がりを表す食事風景

映画における食べ物の使い方については福田里香のフード理論というものがあり、映画評論家の宇多丸もよく言及している。食べ物の描き方によって、登場人物のキャラクターや関係性が描かれているという理論である(詳しくは福田里香『ゴロツキはいつも食卓を襲う フード理論とステレオタイプフード50』を参照のこと)。

『万引き家族』でも食事シーンは非常に効果的に使われており、強いメッセージ性を感じた。

たとえば、物語後半で父親と息子がカップラーメンとコロッケを2人で食べるシーンがある。ここでは、血の繋がっていない2人が家族であることを確かめ合っている。

インスタント食品や出来合いの惣菜は、たとえば園子温『冷たい熱帯魚』において、実質的に崩壊している家族を表現するのに使われていた。あの映画では、表面の浅い浅い部分でかろうじて家族の体裁を保っている一家を象徴するものがインスタント食品だった。

だが、『万引き家族』は真逆である。むしろ、簡単で手のかからない食事が本当の家族の繋がりを表現している。

主人公家族の母親と、じゅりを虐待していた実母。この2人の違いも食べ物によって非常にはっきりと対比されている。

じゅりを保護した母(安藤サクラ)はトウモロコシを茹でたとき、自分は「熱い熱い」と言いつつ食べやすいようにトウモロコシを半分に折り、さらにそこに割り箸まで刺して、子供たちが熱くないように気遣っている。

一方、実母の方は直接食事を用意するシーンはないのだが、報道陣に囲まれてたときに「オムライスを作って食べさせました」と語る。記者から「ご自身で作ったのですか?」と聞かれ、「はい」とこたえる。

しかし、たまに作るオムライスに愛は感じられないし、本当に自分で作ったのかも疑わしい。オムライスというチョイスが、いかにも欺瞞的である。

最後に

『万引き家族』は昨今の社会問題を下敷きにした、非常にメッセージ性の強い映画だった。しかし、押し付けがましさは感じないし、むしろ気持ちを伸び伸びさせてくれる作品だった。

前回『犬ヶ島』の感想を書いたとき、「最近の映画は『正しい』ことを押し付けてきてうんざりする」という意味のことを書いたが、『万引き家族』は見事にこの不満を解消してくれる作品だった。

あ、それから、ラストシーンは非常に胸を締め付けられる。「誘拐」したじゅりが元の夫婦の家に戻され、また同じ孤独の中に置かれるのだ。ここは最近報道されている目黒区の虐待死事件と重なり、涙せずにはいられない。

……うーん、この映画は「正しさ」を相対化していると思ったけど、やっぱりあのラストシーンを思うと、じゅりを保護したのは正解だったと考えざるを得ない(やり方は稚拙だけど)。やっぱり、あのラストは「人間としての本当の正しさってあるだろう?」というメッセージとも受け取れるなぁ。