映画『ノーカントリー』を噛み砕く! 徹底解説&独自解釈の試み

コーエン監督の傑作映画、『ノーカントリー』。公開は2007年だが、未だにその解釈をめぐって喧々諤々の議論が行われている。

遅まきながら、私もこの謎に満ちた映画の解釈を試みようと思う。

アントン・シガーのキャラクターについて

この映画でもっとも印象的なのは、言うまでもなく、殺し屋アントン・シガーの強烈なキャラクターだろう。出会った人間ほぼすべてを殺す、不条理で暴力的で、冷酷な人間。まるで人間離れした、死神のような存在。

たしかに、『ノーカントリー』を2、3回観ただけの段階では、私もそのような印象を抱いた。しかし、さらに繰り返し視聴することで、シガーの別の側面が見えてきた。

表面上は不条理で暴力的、まさに「理解できない」男なのだが、実は深い部分では別の特徴もある。その特徴は「ルール遵守」と「合理主義」の2つに大別できる。順に説明していこう。

シガーはルールを遵守している

『ノーカントリー』を注意深く観ていくと、シガーは自分のルールに忠実であることが見えてくる。不条理どころか、シガーはある種のルールを普通の人間以上に厳格に守るのだ。

その代表的な例が、ラスト、ルウェリン・モスの奥さんカーラを殺害するところである。

あの時点で、シガーがカーラを殺すメリットはまったくなかった。金はすでにシガーが手に入れており、カーラには何一つ恨みはない。「手間を取らせた」わけでもない。なのに、殺した。

この理由は、シガー自身が語っている。「旦那と約束した」からだ。

ルウェリンとシガーは電話で会話をした。そのとき、シガーはこう言っていた。「金を持ってくれば女房は見逃す。持ってこなければ、二人とも殺す」と。

これはシガーにとっては約束であり、ルールとなった。だから、何のメリットもないのにカーラを殺したのである。

さらに、シガーがルールを厳守して行動しているのがわかるシーンがある。

それは追手のカーソン・ウェルズ(ハットを被った男)を殺害するところでシガーが言ったセリフだ。「自分のルールのせいでこうなったのなら、そのルールは必要か」。

これは問いかけの形となっているが、シガー自身が何らかのルールを忠実に守って行動していることがうかがえる。

シガーはルールを守る者に寛容である

シガー自身、ルールには忠実な男だ。加えて、ルールを守る者に対して寛容だという側面も持っている。それがわかるのは、ルウェリンのいたトレーラーハウスの管理人とのやりとりである。

『ノーカントリー』の中で、シガーと対面したにもかかわらず、殺されもせずコイントスも強要されなかった人物が一人だけいる。それがあの管理人の中年女性である。

あの女性はシガーからルウェリンの職場を尋ねられ、「教えられない」とつっぱねた。しかも、都合3度も同じ質問をされ、すべて拒絶したのである。彼女は「居住者の個人情報を第三者に漏らしてはならない」というルールに忠実だった。

結果、シガーは彼女を殺すことも、コイントスをすることもなく、その場を去った。

このシーンからは、シガーがルールを遵守する人間を殺さないという姿勢が見て取れる。

一方、ガソリンスタンドの店主はシガーとのやりとりの中で、いつもの閉店時間を変え、すぐに店を閉めようとした。閉店時間という基本的なルールを安易に曲げようとしたのだ。それはシガーにとって理解不能なことだったし、死に値する行為だった。

シガーは徹底した合理主義者である

シガーは不条理であるどころか、徹底的な合理主義者でもある。

普通は拳銃を使うところを、証拠が残らず音もしない屠殺用のエアガンを使い、人を殺して血が流れたときには靴につかないように注意している。また、モーテルに入った際には散弾銃で打ち抜けるかどうか壁を入念にチェックしている。

シガーは一見不条理でめちゃくちゃに見えて、実は理路整然と考え、合理的に行動する人間なのだ。

余談だが、シガーの野蛮性と合理主義の同居という性質は、1947年出版の『啓蒙の弁証法』(アドルノ、ホルクハイマー共著)を想起させる。

同書ではナチスドイツの分析・批判として、「合理主義は野蛮へと至る」と言われた。つまり、啓蒙=合理主義を突き詰めていくと、人間的な世界が訪れるのではなく、むしろ原始的で野蛮で不条理な状態へと陥ってしまうというのだ。

一般的には、合理性は世界を進歩させると思われている。だが、実相はその逆だった。ナチス政権下のドイツで起こったことは、非常に合理的な手段によって人間性が蹂躙されるという事態だった。

シガーというキャラクターには、そんな『啓蒙の弁証法』で指摘された人間の性質が凝縮されているように思う。

ルウェリンを殺したのはシガーか? メキシコ人か?

『ノーカントリー』という映画は解釈も難しいが、それ以前に、ストーリーをしっかりと追うこと自体が難しい。とりわけ、後半3分の1ほど、舞台がエルパソに移ってからが難解である。

特にわかりにくいのは、金を持って逃げていたルウェリンを殺したのはだれなのかという問題だ。

ルウェリンは一見主人公のようにさえ見えていたのに、最後はあっけなく殺されてしまう。しかも、そのシーンは映画では描かれない。プールで娼婦に誘惑されていたと思ったら、モーテルの入り口で死んでいるのだ。

では、ルウェリンを殺したのはシガーなのか? それとも別部隊として追いかけていたメキシコ人なのか?

私の結論としては、殺したのはシガーである。

保安官ベルがあの現場に到着したとき、メキシコ人たちは慌てふためきながらその場を去っていた。しかも、現場にはまだ生きているメキシコ人も置き去りにされていた。ルウェリンは死んでいたのに、メキシコ人たちは逃亡したのだ。

つまり、あの場にはまだだれかがいて、メキシコ人たちを殺そうとしていた。それはシガー以外にはありえないだろう。

シガーはまずルウェリンを殺し、さらに後からやってきたメキシコ人たちを迎え撃った。そこに、少し遅れてベル保安官が到着したのだ。

この疑問を考えるときにミスリードとなるのは、ベルと他の保安官との対話である。彼はこう言っていた。

「(シガーは)ホテルのフロント係を撃ち殺し、翌日、ベトナム帰りの男を撃ち殺した」

この話はエルパソのデザートサンズモーテルでの話だと、私は最初思っていた。なので、訳がわからなかった。

しかしよく考えると、この発言はデルリオのイーグルホテルの話だったのだ。あの猫のいるホテルで、シガーはフロント係の男を殺し、追手のカーソン・ウェルズを殺害した。この話はシガーの異常性を示すエピソードとして語られたのだ。

そう、「ベトナム帰りの男」とは、ルウェリンではなくカーソンのことを指していたのだ。

そして、これを聞いたベルは「今回もまだシガーは犯行現場にいるかもしれない」と考え、デザートサンズモーテルに向かったのである。

ベル保安官とシガーは同じ部屋にいたのか?

もう一つ、疑問がある。それはベル保安官がイーグルホテルの114号室に踏み込んだとき、そこにシガーがいたのかという問題だ。

あのシーンには、シガーが部屋の角に身を潜めているカットがある。暗い部屋で、外の細い光を受けているという不気味な光景が映し出される。

しかし、ベルが拳銃を手にしていざ入ってみると、そこにはシガーの姿はない。

そのあと、ベルはバスルームの窓を確認し、それからダクトが開けられているのも見て、その場を後にする。

はたして、シガーはその部屋にいたのか? ここは正直、今でもはっきりとしたことはわからない。

考えられる可能性としては、シガーは部屋にいたけれど、ベルが入ってくる気配に気づいて窓から逃げた、ということ。部屋の中からベルの様子を見て、拳銃を抜いたのを確認した瞬間、窓から逃げた。これはありえる。

だが、一瞬映された窓は閉まっていたし、何なら鍵がかかっているようにも見えた。なので、この解釈は微妙である。

あるいは、ベルが踏み込もうとしたとき、シガーはあの部屋にいなかったとも考えられる。シガーのあの不気味なカットは別の時間であって、精神的な接近をあのような形で表現したにすぎない、とも思える。

ただ、それにしては意味がわかりにくい。この解釈も確定的ではない。

正直、この場面はどれだけ考えても確定的な解釈にたどり着けるようには思えない。『ノーカントリー』はあらゆる要素に作り手の意図が盛り込まれているとは思うが、この部分は必要以上に難解になっているように感じる。

ベルが見た2つの夢の解釈

この映画を解釈するにあたって外せないのが、ベルの夢の解釈である。物語最後に至って、保安官を引退したベルは2つの夢について語る。その意味とは?

第一の夢はこうだ。ベルがどこかの街で父親から金をもらい、それを失くしてしまった。

この夢の指し示すところは簡単である。お金というのは、その国に住む人々が共通に価値を認めているもののこと。すなわち、夢の中のお金とは、倫理・正義・常識のメタファーである。その国に住む人が共通して持っているものだ。

だが、ベルはこれを失った。すなわち、アメリカにあった倫理・正義・常識といった共通の価値が失われたことを示している。

この「お金」のメタファーは、シガーがトスで用いたコインを「特別なコイン」だと言っていたこととも呼応していそうである。ベルは万人に共通するお金を大切にしていた。一方、シガーは他とは違う、特別なコインを重んじていた。

次に、第二の夢。ベルは寒い山中を馬で移動していた。前には父親がいて、手には角に入った火を持っていた。父親は先に行ってしまうが、どこかで火を焚いて待っているということが、ベルにはわかっていた。

この夢は難解だ。だが、イメージとしてはダンテ『神曲』の煉獄編に似ている。煉獄編では、主人公ダンテは師であるウェルギリウスに導かれて煉獄山を登り、やがて天国に到達する。

そのイメージと重ね合わせると、このベルの第二の夢は救済を暗示しているようにも思われる。

だが、この世界で、現代のアメリカで悪と戦うことを使命としていたベルにとって、あの世での救済は現世での敗北を意味しているようにも解釈できる。

ベルはピストルを抜いてシガーとの対決を覚悟したが、結果としては取り逃がしている。おまけに守るべきカーラは無残に殺されてしまった。本人は引退し、優雅な老後の生活を送っている。これは保安官としては敗北以外の何物でもないはずだ。

あまり判然とはしないが、第二の夢はベルの保安官としての敗北を意味しているのだろう。

シガーの敗北とカーラの勝利

最後に、ベルの夢のくだりの前にあった、シガーとカーラのエピソード、そして交通事故のくだりについても考察してみたい。

シガーはルウェリンとの「約束」を守り、カーラに会いに行った。そこでしばし問答し、カーラにコイントスを迫る。だが、カーラはそれを拒否し、「それを決めるのはあなたよ」とつぶやく。

家から出てきたシガーは靴の裏を見る。血がついていないかどうか確認したのだ。つまり、カーラを殺害した。

そのあと、シガーは青信号の交差点を進もうとしたところで、猛スピードで突っ込んできた信号無視の車に衝突されて大怪我を負う。散弾銃を被弾したとき以上の、自分ではどうしようもなさそうな怪我だ。

この2つの連続したエピソードは何を示しているのか?

まず、シガーはカーラにコイントスを拒絶された。なのに、殺してしまった。つまり、シガーは「殺すか殺さないかはコイントスで決める」という自らのルールを破ったのだ。

直後に起こった交通事故は、そのルールを破ったことに対する報いであると解釈することができる。これまで自分のルールに忠実に生きてきた男が、ついに自らルールを破ってしまった。あるいは、カーラという異質な存在によって「破らされた」。だから、シガーは報いを受けることになった。

あの場面において、カーラは生命を奪われたが、シガーのルールを拒絶することによって、ある意味で勝利したのである。

シガーは杓子定規で融通の利かないやつ

以上のように考えてくると、シガーの「不条理で理解不能な怪物」というイメージはだいぶ変わってくる。極端に言えば、シガーは自分ルールに執着している杓子定規で融通の利かないやつだ。

市井の人間からすれば、たしかにシガーは一見恐ろしい。一般的な正義や倫理、常識といったルールが通用しないから。

だが、シガーはシガーで別のルールを持っており、しかも一般人よりもそのルールに忠実である。そこに弱さがあり、ルールが通用しない局面ではその強さを失ってしまうのだ。

……いま気づいたのだが、物語はじめの方でシガーが牛乳を手にしていた場面は、こう解釈できるかもしれない。

ルウェリンのトレーラーハウスに侵入したシガーは冷蔵庫から牛乳を取り出し、手に持ったまま暗いテレビ画面を見つめていた。あのときシガーは、『時計じかけのオレンジ』の主人公に自分を重ね合わせていたのではないか。

『時計じかけのオレンジ』は、非人間的な暴力性を魅力的に描いた映画である。公開は1972年。『ノーカントリー』は1980年の話だ。作中のシガーはあの映画を見ていた可能性がある。ミルクバーで主人公が牛乳を手にしてまっすぐ前を向いて座っているというシーンは『時計じかけのオレンジ』冒頭にあった印象的なシーンだ。

シガーは自らの暴力性・非人間的な面も十分自覚し、それに酔っていたのかもしれない。

牛乳を手にして座る自分の姿をテレビ画面に反射させ、好きな映画の主人公になりきっている——そう捉えると、ますますシガーの神話的な性格は崩れて普通の人間のように思えてくる。

最後に

難解な映画『ノーカントリー』について考察してみた。シガーは表面的な印象とは違い、ルールを徹底して遵守する人間で、それゆえの弱みを持っていることがわかったと思う。

にしても、この映画にはまだまだ理解不能なことがたくさんある。ベルがホテルの部屋に入ったときシガーがいたのかどうかもそうだし、ルウェリンの描き方についても腑に落ちない部分がかなりある。

さらにまた数年後に見返してみたい。きっと新しい発見があるだろうから。

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この映画の解釈について、「こんな捉え方もある」「そこは違うぞ」など、ご意見のある方はコメント欄にてどうぞ。

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